ひと手間の意義

 料理番組などを観ていると、必ず出てくるのが、

 

 「ここで、ひと手間加えるのと加えないのとでは、味が全然違うんですよ」

 

 「ズルズル  あっ、なるほど、変わるモンですねぇぇぇぇ。」・・・と言うやり取り。

 

 「ウソつけ」とボクは思う。

 

 水にサッとくぐらせてとか、粗熱を取るとか、余熱で火を通すとか、やってるのはそんな類。ボクのバカ舌では、そのひと手間に気づく自信は全くナシ。そんなに手を込んだ事をしてもらったら、ありがたいを超えてかえって申し訳なく思う。

 

 だから、我が家の夕飯は、極力簡単なもので良い。料理が完成し奥さんが水場の片付けをして席に着くころにはボクは下手すれば食べ終わっている。そんなレベル。大味のエリアがおいしければ全く問題ない。

 

 1品に5時間かけても、10分で出来ても、食べる側は5分で終了する。で出る言葉は「うまい」の一言。それ以上でもそれ以下でもない。味覚に関して脳ミソのインフラ整備が進みすぎているのだ。

 

 この場合「ウソつけ」と思ってしまうボクが追突事故の10:0で悪いのであって、「この焼き加減が絶妙で、香ばしさの後にほのかな甘さが・・・」などと言う脳回路センサーがそもそも存在していないという残念さ。「うまい」と言う終着駅には夢のリニア並の速さで到達する。

 

 こんな輩に対する「ひと手間」と言う行為は、自分はここまで手間をかけたぜ!と言う自己陶酔に浸りたい場合にのみする事なのかもしれない。(あくまで、ボクのような貧乏舌の話)

 

 

 話はだいぶ違うかもしれないが、こんなボクでも、ひと手間をかける事がある。

 夜な夜な寝苦しい夜に、エアコンが活躍する時期。ちょっと寒い程にエアコン回して、あえて羽毛布団に包まり、足だけちょこっと出すという「ひと手間」 ひんやりした足先がなんともキモティうぃぃー。

 いったん裏へ攻めての表返しが良い。

 

 ここは、エアコン回さずタオルケットでは成し得ない感覚なのであります。表の表だから。

 

 真冬に短パンの電気毛布も、なかなかオツなもの。冬の短パンと言う裏へ行ってるからね。

 最終的には夏も冬も、くしゃみをし始めて怒られると言うオチなのですが。

 


 そういう今もドリップコーヒーを気取って飲んでいるけど、缶コーヒーをドリップコーヒーに変えると言うのはちと違う。これは「ひと手間」不認定。そもそも種目自体が違う。

 どっちでもイイんだけど、どっちがってったらさすがのボクもドリップがイイ。

 

 ってな感じでドリップする時に、少量のお湯を1周たらして、1分程粉を蒸かしてみる。

 ここがひと手間!!!

 そうやるとイイって言ってたから、いつもそうやってる。完全なる自己陶酔。

 で、結局全然違いが分からない・・・。

 

 挙句の果てには、パソコンに夢中になり、ひと手間かけたコーヒーの大半が覚めてしまっている情けなさ。

 

 けど1分蒸かし・・・続けるよ。それがイイって言ってたから。